コラム

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    小魚が大魚を飲み込む


    「大は小を兼ねる」という言葉にある通り、大きさは重要です。これは、広告や大衆文化でよく見られ ます。より大きく、より強く、より速くといった考え方です。 しかし、禅の世界では別の真実があります。「小さなものが大きなものを凌駕する。」です。



    これを聞くと論理的にも不可能であるように感じられますが、私の経験上、それはしばしば真実であると理解しています。禅の思想では、悟りを通してより小さな自己から大きな自己へ目覚めてゆくという考え方があります。どんぐりは樫の木になりますし、男の子は父親になります。小さなものが大きなものを超えるの過程は、競争を通してではなく、成長と変革を通して達成されます。


    茶道から剣術に至るまで、禅に通じる日本の伝統の多くは「書道」を育み、その実践を通じて、心と体の成長を促してきました。まさに、小さなことからはじめて、大きなことを超えてゆく成長を促してゆきます。


    習字と書道の大きな概念の違い


    「習字」と「書道」。両方とも毛筆を使いますが、筆の運びや書の書き方などには大きな違いがあります。



    • 「習字」は主に小学校または中学校で担任の先生から教えられる科目です。習字は卒業のない生涯学習です。「習字」は読みやすさに焦点をあてたものですが、「書道」では、書の様式美、空間の構成、非対称性、書体の生命力、四宝(筆、紙、墨、硯)に焦点をあてています。

    • 習字では言葉の意味を強調した印刷フォントに似た文字の目指しています。 書道は、音楽家が演奏するように、文字の世界観、美しさ、バランスに重点を置いています。

    • 習字は標準化を良しとし、書道 は個性を表現することを目指しています。

    • 書道は習字のようにAIを使って完璧に再現するはできません。書道の本質はコンピュータや技術では決して再現できない人間の資質を表現することです。


    書道は、芸術の在り方を進化させ、気づきやインテリア、装飾、美しい店舗の看板、または禅の精神修養としての形など、さまざまな派生をしています。


    禅としての書道


    禅と書道は深い関係にあります。禅の高僧の筆跡は禅林墨跡と呼ばれ、芸術作品としてではなく悟りを開いた心が残した視覚的な痕跡として存在しています。禅林墨跡は、茶道の床の間などの特別な機会で披露されます。禅師自身が式典に出席し、客人と熟考して話し合うための象徴として使用されるため一般的には公開されるものではありません。禅師は禅公案や瞑想の話を通じて説法を深めます。まさに「小さな魚が大きな魚を飲み込む」場面です。 日本の書の世界観としては、詩の情景や自然の移り変わりが墨絵として表現されます。荒々しい自然の姿や、菩提の禅の創始者である達磨大師、四季の彩りや、人々の生活文化、禅の教えなどが墨絵として表現されます。特に円相は禅における生命の循環の本質を表す不完全な円であり、禅修行の心でもあり、永遠の悟りの道に通じます。例えば12世紀の中国で生まれた十牛図では、悟りの道に入り最終的に日常生活に戻るまでの修行の在り方を10段階の説話として描いています。

    書道では写経という小筆で仏教の経典を書き写す修行の方法があります。経典は仏陀の弟子たちが書き記した教えであり、もともとはサンスクリット語で書かれていましたが、中国語に翻訳され現在に伝わります。写経を通じて僧侶や人々は心を落ち着かせ、瞑想に入り、仏陀の教えの意味を徐々に深めます。 書の世界では仏教の教えを受けるために僧侶や修行僧になる必要はありません。どんな宗派であっても書道は修行の手段になり得ます。


    一般教養としての書道


    日本では五つの教養としての書道や絵画、和歌、茶道、武道が育まれてきました。事実、 書道はアジア独特の教養のひとつであり、哲学、詩、歴史、芸術、そして人文科学の教訓を伝えるために普及しました。中国では公務員や軍隊の指導者のための訓練と試験として「刀」と「筆」が重んじられました(文武両道)。日本では武家の教養として書道が重用されました。そして書道は神道、禅、山岳信仰、宋明理学、キリスト教など、様々な精神性を取り入れ、日本独自の無宗教スピリチュアル型(SBNR)としての存在に昇華しました。


    日本の書道は平安時代に和歌と書道において様式美を発展させました。平安時代(794〜1185)の日本の首都であった平安京は、現代の京都でした。この時代の和歌と書道は日本人の教養として考えられており、現代においても日本では大変人気があります。和歌の他にも俳句や俳画があります。これらは書道の実践というよりは文学として今日においても大きな支持を得ています。


    書道、その神秘性からの修練


    書道は、その書体から客観的に美しさを感じることができます。その神秘性を文学的かつ詩的に理解する唯一の方法は師から実践的に指導を受けることです。書道における修練とは、師から書を学び、手本に沿って筆を進めます。級や段を取得し、書道大会に参加することで新たな高みに挑戦する事ができます。様々な書の技法に触れ、毎月の様に作品の質を高めてゆく環境は、あなたの心や体、性格に影響を及ぼします。書道にはまさに漢方薬のように効果があり、時間の経過とともに徐々に心身のバランスを整えます。副作用はありません。


    手本を通じて、あなたが今していることを確かめ、同時に志を整えます。まるで心の鏡のようなものです。書の修練とは、このギャップを埋めることです。師の傑作を写し書きするこの過程は、しばしば訓練が必要です。最初は細部まで観察する事が難しく、手も無意識に動いてしまいます。心を落ち着かせ、精神を集中させて筆で表現できる状態に至るまでには長い修練が必要です。

     

    最初は筆自体が心を持っているようです。飼いならされていない野生の馬のように、筆自体が自由に動いてしまい、あなたの思うようには動きません。まず、知的、精神的、肉体的な集中状態を作り出す事が肝心です。良い筆は良い書に通じます。特に良筆は書の可能性を広げ、新しい発見にも通じます。初心者は時に手本を軽んじ、道具のせいにしてしまう事がありますが、師に近づくほど、筆や和紙などの素材に対して謙虚になり、自らの書よりも手本をじっくりを観察し、心に描いたイメージを描写します。


    書道はクラシック音楽やジャズの最高のミュージシャンと同じく呼吸法、姿勢、全身の調和、感覚、想像力によって表現力が高まります。そのため、短い作品でも汗をかきますが、エネルギーが溢れ出すため疲れることはありません。書道の世界は音楽と多くの共通点があり魅力的です。しかしまだまだ西洋文化からは、言語、文化、地理的な壁があり、書道文化は普及していないため神秘的に感じられるかもしれません。50年近くにわたる私の探求の先にあるモチベーションは、書道という日本とアジアの教養の5つの卓越性の1つである素晴らしい価値を世界に導いてゆくことです。


    私、ウィリアム・リードは書道の最高位である10段を修め、書道界の認定教授であり、全日本書道書道の副会長、日本書道教育協会に所属し、現在は山梨学院大学国際教養学部(iCLA)の書道・漢字文化の教授として、国際書道コンクールで数々の賞を受賞し、銀座のギャラリーに定期的に出展。またオンライン書道教室や、舞台、ドキュメンタリー、武道雑誌と道場、神社、禅寺で書道のライブパフォーマンスを行っています。


    執筆者 ウィリアム・リード

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