高野山の「拝める博物館」と空海。

高野山の「拝める博物館」と空海。

2020.3.11

高野山にある霊宝館に一歩足を踏み入れると、千数百年にわたる人びとの真摯な祈りを引き受けた仏像群から漂う深遠で清澄な空気を感じることができる。館内には高野山にある寺院が所蔵していた仏像、絵画、書籍、工芸など約78,000点もの文化財が収められ、このうち国宝は23件、重要文化財は147件にも達する。来館者を何より驚かせるのは、展示されている仏像群がガラスに覆われることなく、観る者とともに存在することだ。これほど貴重な宝物が、古来人々が祈りを捧げてきたのと同じよう目の当たりにできるところはほかにない。博物館ではなく「拝める霊宝館」と呼ばれる所以だ。そしてこれらはすべて国家安泰や病気平癒など空海の祈りを引き継いだ願いが込められている。

 標高800mの山上に東西6km、南北3kmの平地が開けた高野山は、1200年前に現れた天才・空海が、神に導かれるようにたどりついた天空の宗教都市だ。なぜ、このような山深く静寂に包まれた人跡未踏の地を祈りの聖地としたのか。それを知るために空海の生きてきた道をたどってみる。
 「人々が、そして国家が安寧を得るためにはどうすればよいのか。」
悩める10代だった頃に空海は紀伊半島や、故郷である四国で苦しい山岳修業に明け暮れた。吉野から熊野へ続く大峯山麓の天川村に引き寄せられ、17歳から20歳の千日間、天川大辯財神社に籠って修行をした。周囲には人を寄せ付けない大絶壁が立ちはだかり、ところどころから落ちる滝が岩を伝い、川となってうねりをつくる。森と水が生み出す不思議なエネルギーが満ちあふれる天川の地や四国の山々で空海は宇宙と自分がつながっていることを実感する強烈な神秘体験を幾度も経験した。
 この頃歩いた吉野・金峯山寺から後に開く高野・金剛峯寺を結ぶ道は「弘法大師(空海の尊称)の道」に定められ、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の2大霊場が空海が歩いた道により結ばれている。
 24歳で仏教に専心する決意をしてから、空海はあらゆる経典に目を通し、最新の仏教に触れるべく中国語を猛勉強した。31歳の時、唐(中国)に渡った空海は、当時の仏教の最先端である「密教」を学ぶ。密教は文章で表現できるとする「顕教」とは異なり、その境地に到達した者以外うかがい知ることのできない世界を師から弟子へと受け継いでいく「秘密の教え」を表す。この教えを短期間で取得した空海は、帰国後、わずか37歳で東大寺の十七世別当職に就任する。
 そして、国家の安寧と人々の救済のための修行を続ける場を探し求めるなかで、空海は、少年の頃、険しい山地の中に開けた奥深く静寂な平地があった記憶をたどり、高野山こそ密教の修行を続けるにふさわしい場所と考え、寺院建立の地に定めた。ときに空海、43歳。
 その後、日本中に感染症が流行り多くの人が亡くなったとき、また、日本中に日照りが続き農作物が枯れてしまったときに、空海は時の天皇の命を受けて祈祷を行い、多くの人を苦境から救った。
 官職に請われ、京都や四国に赴き、氾濫が絶えなかったため池の改築、だれでもが学問を治めることのできる学校の設立などに奔走した空海は、59歳になってようやく高野山に身を落ち着かせる。以降は体調に陰りがみられるようになったが、全力で修業に励み、空海が確立した真言密教の確立、存続に尽くした。62歳で入定した空海は、現在でも高野山の奥の院の御廟で人々のために祈る「永遠の瞑想」を続けている。そして空海の思いを受けた弟子たちにより教えは受け継がれ、民族や宗教の違いを超えて、人々の信仰を集め続けている。

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