南方熊楠を知っていますか? 粘菌に宇宙を見つけ、森を守るために戦った奇人・変人
2020年03月11日
湿った環境ではアメーバのように自由に形を変えながら動き回り、乾燥するとキノコのような形でとどまり胞子を出して繁殖する「粘菌」。稀代の博物学者、南方熊楠はこの動物とも植物ともつかない小さな生命体にほれ込み、生涯で4500種類に及ぶ世界一の菌種標本を残した。そして多様な生態のゆりかごであり、自身の探求の場でもあった紀伊半島の豊かな森を守ることに命をかけた。紀伊半島の自然が育んだエコロジスト。それが南方熊楠だ。
熊楠は1867年、紀伊半島の西部にある和歌山市で生まれた。地域の人から厚い信仰を集めていた半島南部の熊野(KUMANO)から「KUMA」を、生誕地にほど近い藤白神社にそびえていた古木の楠(KUSUNOKI)から「楠(KUSU)」を取って名付けられた熊楠の人生はまさに紀伊半島とともにあった。
幼いころから野山を駆け回り、植物図鑑の絵をすべて精細に描き写すような少年だった熊楠は東京にある国内最難関の大学に進学する。しかし授業は、幼少期に辞典を丸暗記していた彼には退屈で、動植鉱物の標本収集に明け暮れた。学問の刺激を求め今度はアメリカに留学するがやはり物足りず、独学で自然科学、哲学の専門書を読み漁った。その後に渡ったイギリスでは熊楠の博学ぶりが知れ渡り「東洋の星座」について記した論文が科学雑誌「Nature」に掲載される。大英博物館に通いながら論文も次々に発表していった。このころ熊楠は7、8カ国語近くを操るまでになっていた。
帰国した熊楠は熊野にある那智に向かった。1,000m級の山々が折り重なる奥地に開けた那智には豊かな生態が息づいており、熊楠は水を得た魚のように原生林を分け入り、植物の観察に没頭する。信仰の地でもあった熊野は、熊野本宮大社、熊野速玉神社、熊野那智大社の熊野三山があり、死後の幸福を求めて全国から詣でる人が絶えない地でもあった。
熊楠が粘菌にひかれたのは学問的な興味ではなく、この小さな生命体を通じて動と静、生と死の表裏一体を感じ、そこに普遍的な宇宙の真理を見出したからだった。熊野の地は熊楠にとって万物流転の思索を深めるのにふさわしい環境だったのだ。
1904年、熊楠は田辺町に住居を構える。熊楠がとくに好んだ場所は、湿った場所を好む粘菌にとって格好の棲み処であった「神社の森」だった。1906年、時の政府は全国に数多くある神社を1町村1つに減らす神社合祀政策を推し進めていく。これに熊楠は猛然と反発した。なぜなら、神社をつぶすことは森に生きる貴重な動植物の生きる場所を奪うことにほかならなかったからだ。
和歌山県で5,800余りあった神社は400台にまで減ってしまった。大好きな研究の手を止めてまで合祀反対運動に精力を傾けた熊楠は新聞紙上で意見を訴え、国に協力を求めた。その中に「エコロジー(生態学)」という言葉を使っていた熊楠の先見の明に驚かされる。熊楠が反対運動を始めてから10年近くが経った1918年、合祀の廃止が決まった。田辺から熊野本宮大社に向かう中辺路には熊楠が合祀による伐採からかろうじて守った高原熊野神社の大楠が残っている。
晩年を過ごした田辺市で熊楠はいつまでも植物採集を日課とした。とくに田辺の海沿いにある天神崎はお気に入りの場所で、景勝地として守る必要性を説き続けた。熊楠の没後、天神崎に開発計画が持ち上がった時、地元の人は天神崎の自然を守るために市民のお金で買い取って保全していくことを決め、日本におけるナショナルトラスト運動の第1号となった。
熊楠が住んでいた田辺市の自宅隣接地に建つ南方熊楠顕彰館では、熊楠の文献などを通じ生涯を知ることができる。また、白浜町の番所山公園には熊楠の標本類・遺品を展示している南方熊楠記念館がある。この公園も熊楠が愛してやまない植物の採集地であった。比類なき博学と、規格外の好奇心、たぐいまれなる探求心、そして変人扱いされるほどの執着心を持って生きた熊楠は今なお多くの人の心に息づいている。
All photos are from The Minakata Kumagusu Archives (Tanabe City).