Spiritual KANSAI シリーズブログ12 : 日本の城2

Spiritual KANSAI シリーズブログ12 : 日本の城2

2021年03月09日

The KANSAI Guide

関西地域は日本の精神文化の聖地であり、正真正銘のおもてなしに溢れる関西。そんな関西を「Spiritual KANSAI」と題して、様々なテーマを抽出しコラムにまとめてみました。本ブログシリーズでは、それらコラムを順に紹介していこうと思います。シリーズ第12弾は、「日本の城2」をお届けします。(以下文章は本サイトのSpiritual KANSAI コラムページ(https://kansaiguide.jp/rt/column/)より引用しています)

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関西の城2

侍の優雅なシンボル
引用元

関西の城1のブログはこちら

それではここで、けっして見逃すことのできない、いくつかの城を紹介しましょう。

国宝姫路城

兵庫県にある姫路城は、優雅で、見事で、日本のアイコン的な存在の城です。現存する12の天守の中でも最大の規模を誇り、保存状態の良さでも知られています。白漆喰で覆われた優美な天守は、白鷺が飛び立つ姿に似ていることから、別名「白鷺城」ともいわれています。「関ヶ原の戦い」の後の1609年に完成した姫路城天守は、高さ31.5メートルの建物が14.85メートルの天守台の上に立っています。天守群は、連立式とされるスタイルで、大天守と3つの小天守が渡櫓で連結しており、中庭を取り囲むようにつくられています。姫路城は、他の城と比較しても多くの遺構が残っている城です。1993年には奈良の法隆寺と共に日本初の世界文化遺産に登録されました。天守、櫓、城壁、堀など、この壮大な城へは十分に時間を取って訪れてください。

将軍家の城 国宝・二条城

京都の中心部にある二条城は、1603年に徳川家康によって築城され、同年、将軍就任に合わせて完成しました。この城は、将軍上洛の際の宿泊所として、また京都の政治儀式の場として、また1884年からは皇室の別邸(離宮)としても使われました。

二条城は徳川幕府の栄枯盛衰を見た城でもあります。徳川家康が将軍になった十四代後の1867年には最後の将軍・徳川慶喜が退位し、明治天皇に政権を返上し、日本の封建時代は終わりを迎えました。

二条城の五重天守は、天皇が京都の景色を楽しんだ場所でしたが、1750年の落雷で焼失し、今は天守台のみが残っています。現在の二条城のみどころの中心は、美しい庭園、見事な門、二の丸御殿です。優雅な宮殿にはおよそ30の部屋があります。その中でも「大広間」は最も立派なものの一つです。ここは、主君が家臣と公式に面会をする際に使われた場所です。二の丸御殿には約3600面の障壁画が残されています。それは金箔に直接描かれた繊細な美術品です。そのうち、1016面が国の重要文化財に指定されています。

二条城に残っている建物のうち6棟は国宝、また、門や櫓を含む22の建物は重要文化財に指定されています。そのうち、きらびやかな金色の建具と絶妙な彫刻が施された二条城の唐門は、京都を象徴する風景であり、特に人気の高い撮影スポットです。また二条城は、1994年には世界遺産にも登録されています。

天皇によって救われた彦根城

1868年、封建時代が終わりをつげると、ほとんどの城は取り壊される運命にありましたが、彦根城は、彦根を通った際、明治天皇の目にとまり、取り壊しを免れることになったとも言われています。
現在、国宝天守の5つのうちの1つに数えられている彦根城は「関ヶ原の戦い」で活躍した井伊直政の命により築城された城です。直政は「関ヶ原の戦い」で負った傷が原因で亡くなってしまったため、息子がその後を引き継ぎました。

また彦根城には、天秤櫓、西の丸三重櫓、太鼓門櫓、馬屋などが国の重要文化財に指定されるなど、建造物が数多く残っています。そして広大な大名庭園「玄宮楽々園」は、一年を通して美しく、伝統的な建造物や茶室、数少ない城主の屋敷が残っています。

もし、この城を攻める者が現在の切符売り場のある場所までたどり着いたとしても、その先には、驚くべき防御機能が待ち受けています。城の入口から本丸へと向かう坂道は、一見、緩やかで簡単にのぼることができそうに見えますが、実はそうではありません。なぜなら城を攻める敵の勢いを妨げるために、階段の幅や高さを変えてあるからです。甲冑を身につけた武士たちが勢いよく、これを駆け上がるのは困難でしょう。

坂道をのぼりきったところにも、防御が張り巡らされています。城を攻撃する敵は、深い溝にかかった廊下橋の下をくぐり抜けねばなりません。その後、左、また左、さらに左へと三度ターンし、らせん状にのぼっていくことでやっと橋を渡ることができるようになりますが、天秤櫓からは丸見えです。しかもこの橋は、橋桁をはずし落とすことができるという防御機能が備わっているため、橋をおとされれば本丸へのアクセスは遮断されてしまいます。

彦根城天守は、ある戦いで破壊され、彦根城近くにもあった大津城の天守を再利用してつくられており、天守内では、少し変わった形の梁を見ることができる興味深い天守です。城のふもと、かつて表御殿があった場所には、とても興味深い博物館があります。彦根の殿様・井伊家の武具や武器など、大名家が使用したものが展示されています。滋賀県にある彦根城は、サムライの城の防御を理解するのに最適な場所です。

藤堂高虎の最高傑作・篠山城

兵庫県丹波地方にある篠山城は、別名・霧ヶ城とも呼ばれる平城です。1609年、徳川家康が大阪(当時は大坂)へ侵攻するために、20名の大名に6ヶ月で完成させるよう命じ、つくらせた城です。

シンプルながらも効果的なデザインと印象的な石垣を手がけたのは、築城の名手・藤堂高虎です。重要な3つの門は適切な場所に配置されています。そして、その周囲には、今では珍しい「馬出し」と呼ばれる特殊な防御用の虎口(入口)があります。篠山城には天守台はありますが、天守はつくられませんでした。その代りに、2つの三階櫓、13の二階櫓で城を守っていました。なぜ天守がつくられなかったのか。それは篠山城の縄張が、あまりにも優れていたため、将軍・家康は、逆に自分自身が攻められるときに利用されるのではないかと
恐れたためとも言われています。また、このころ家康は大坂にいた豊臣家を一掃するため、名古屋城を築城する計画もあり、篠山城天守は築かれませんでした。

篠山城は1871年に取り壊されました。大書院は1944年まで残っていましたが、第二次世界大戦の空襲で失われています。しかし2000年には、京都の二条御所や名古屋城の御殿の古写真や建築図面を参考に再建されています。現在、城下町の一部は、現在も残されており
城下町に残る伝統的な武家屋敷はその地域の自治体によって守られています。

天空の城・竹田城
標高353mにある竹田城。気象条件が揃うと、城の周囲にある盆地には霧が立ち込め、山頂と切り立った石垣跡だけが顔を出し、まるで雲の中に浮かんでいるかのように見えます。1443年頃に築城されたこの城は、現在は石垣のみが残ることから、日本のマチュピチュとも呼ばれています。

日本100名城にも選ばれている竹田城は、山頂や尾根を平らに削って曲輪を形成、急斜面を削り、地元の山から調達した石で石垣を積んでいます。これらは、急な山に狭い道を切り開き、すべては人力による手作業によって行われたものです。ブルドーザーやクレーン、トラックなしで。兵庫県の竹田城を訪れ、インディ・ジョーンズのような気分を味わってください。

福知山城の墓石
福知山城は、1579年、三英傑の一人である織田信長の命を受け、信長の家臣・明智光秀が築城した城です。光秀は、自然の掘として活用することができる由良川に囲まれた福知山の盆地の中央にある大きな丘陵地を利用し城をつくりました。城をつくる場所としては、好立地です。

福知山城の完成から3年後の1582年、光秀は信長に謀反を起こし、信長を死へと追いやりました。光秀が信長に謀反を起こした理由は、今もなお歴史上最大の謎の一つとなっています。福知山城の築城は光秀の最大の功績の一つです。

この時代は、城が完成する前に敵からの攻撃を受ける可能性があったため、急ピッチでつくる必要がありました。そのため光秀は、天守台に地元の寺院の墓石や石の灯籠も利用しています。このような石が城内には500個以上あります。福知山城は江戸時代の後、解体されていますが、1986年に天守が再建されました。続日本100名城にも選ばれており、天守内は魅力的な博物館となっています。

関西の城
関西地方には城や城跡が多数あり、各町には少なくとも1つ以上の城や城跡があります。城の大きさやデザインは異なりますが、それぞれの城に素晴らしい物語があります。ここで
紹介したのは、ごく一部に過ぎませんが、これらの城を訪れれば、武士の権力や軍事力、創造力を発見することができますよ。

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