コラム

Date:

    侘び寂びの世界観



    日本の美学を端的に表現するとしたら、おそらく「侘び寂び」です。覚えやすく、口ずさみ易いこの言葉は、日本や日本美術に興味のある人なら誰でも知っています。石庭、苔、ざらざらとした茶器のイメージがそこから想起されます。「詫び」という二語は元々は孤独を意味します。そして「寂び」は、簡素で落ち着きのある美しさ、そして経年することによる美しさ、緑青を意味します。殆どの日本人に「侘び寂び」が実際に何を意味するのかを尋ねると、大抵は肩をすくめます。しかしそれは誰も知らないからではなく、言葉で表現するのが難しいからだと、京都の宇治にある朝比屋木陶器を率いる16代目の松林保斎は表現しています。つまり、ある意味での「原始的な美意識」としての「侘び寂び」は英語の単語では「primitive」に近いと感じています。朝日焼は1600年頃の江戸時代初頭に茶道文化を牽引するために公家の小堀政一(小堀遠州)によって創立されました。「詫び」や「寂び」の概念は既に古来より定着をしていましたが、その後、遠州は「侘び寂び」という表現に語彙を与え、朝日焼には「侘び寂び」の世界観を表現する核心的な美意識の象徴として「綺麗さび」が器に施されました。そして全ての陶器がその美学を今日まで継承しています。松林保斎が英語で語った「侘び寂び」について考察は広く海外で知れ渡りました。



    「侘び寂び」を言葉で表現することが殆ど不可能な理由は、その感性自体が侘び寂びの本質であり、日本の思想源流に繋がっているためです。数年前、私は徳島の山で山伏の知人と日本の友人達と共に韓国風焼肉を楽しんでいました。私たち全員が牛焼肉を食べていたという事実は、それ自体がある意味で日本の物事が如何に一貫性がなく流動的であるかを示す良い例です。山伏は本来は伝統的に肉を食べませんが、この時は韓国風焼肉とビールを一緒に楽しんでいました。食事をしていると、山伏の友達に「修験道と山伏の道の本質」を聞いていたところ、彼は大きな笑みを浮かべて私に向き直り「絶対に到達できないかもしれない。気にしすぎですよ。」と言われました。テーブルの周りで爆笑がありました。それは確かに私に多くの示唆を与えました。つまりこの事は日本人の物事に対する考え方について多くを語っています。西洋の私たちが幼い頃から論理で物事を区分して理解しようと条件付けられています。しかし日本的な思考では、ごく最近までその論理的思考を極力避け、より自然で流動的に人間の心の赴くままに物事を理解する傾向があります。


    「侘び寂び」の美学がどのようにして生まれたのかを説明する場合、多くの専門家たちは紀元前14000年から300年までの長い先史時代である縄文時代にまで遡ります。当時、日本は狩猟採集社会であり、農業という概念はありませんでした。しかし、狩猟採集社会としては珍しく、縄文人たちは洗練された精巧な縄文式土器を作りました。土器は重く、作るのに時間がかかるため、通常は1か所にとどまる農業型社会に関連づけられますが、縄文社会の狩猟採集社会のライフスタイルを維持しながら定住し続けることができたのは、日本が食料資源に恵まれており縄文時代は自然が提供するものを頂くことで、定住できたためであると考えられます。世界中の多くの社会でそうであったように、自分たちで食べ物を育て社会を築くという事は精神性や宗教観と繋がりますが、日本における豊かな自然を背景とした生活様式は、日本人の精神性と宗教観を他地域とは違うかたちで育みました。それは日本人の思想や哲学にも発展し、現在も日本文化の根源に横たわっています。日本の神道は、確かに政治的および社会的目的のためにさまざまな場所で使用されてきましたが、本来は自然に基づく信念体系であり、古代ケルト文化やネイティブアメリカンの信念にも似たアニミズムの混合のようなものであり、「神」とは自然が持つ神秘性や霊力など全ての価値のことを表現し、ヒンドゥー教にもよく似た多神教型の精神です。自然を崇拝することにより季節の変化に敏感になり、生命の無常感にもつながりました。日本人の価値観を理解する上で自然観は非常に重要であり、例えばこれらは数多くの芸術家や作家が精神性や想いを作品に反映し世界に発信しています。


    552年に朝鮮半島を経由して日本に仏教が伝来し、それと共に日本では仏教芸術や大陸文化が浸透し始めました。日本の仏教の歴史は複雑ですが、日本の美学に大きな影響を与え続けた最も重要な概念のひとつは、「空(くう)」とスートラの概念でした。例えば「般若心経」は、全てのものが「空」であり、絶えず変化していると唱えます。これは、日本人が自然に対する彼らの見方で既存していた理解を更に強化しました。仏教が広まり、日本社会がより洗練されるにつれて、外の世界との接触が増えました。 752年に東大寺に大仏殿が建立され、1998年まで世界最大の木造建築物であり続けました。中には世界最大の銅像である大仏が鎮座し、大仏開眼式ではシルクロードを通じて世界中から識者がが奈良の都に招待されました。境内は世界最大の国際的な音楽と祈りの祭典が催されました。この時を境に日本は世界に対して文化大国としての存在感を示しました。西洋では、自然を完璧に制御し人間の能力を人工物建築によって示しますが、日本では木材や和紙など自然素材を使い自然と同化してゆくことが好まれました。奈良の大仏と鎌倉の大仏はある意味で特殊です。それは日本にはそもそも青銅や石の芸術作品が殆どなく、資源も限られている中で。技術的にそれらを生産する術を身に付けはしましたが、それでも彼らは文化全体を西洋化する事はせず、例え地震が発生しやすい国であったとしても、木材と紙で建築を行いました。確かに朝鮮半島や中国大陸でも同様の文化があるのでこの理論はあまり立たないかもしれませんが、日本人は石の建築をよく知っており、石材資源も豊富にありましたが、日本では木を扱うことが現在も好まれています。


    芸術分野でも同様の変化を基軸とした美意識が尊ばれました。1008年に書かれた源氏物語では、秋と「あはれ」、つまり悲しみと哀愁を表現した和歌が数多く収録されています。同様に、同じ時期に重要な国宝となった唯一の陶器は、秋の草を表すシンプルな傷のある線のモチーフで飾られた美濃陶器の大きな鍋です。日本人では精巧な装飾や壮大さを好みますが、「黄金の水仙画」よりも、生命の終りに木に生えている一枚の紅葉の方に、美の極みを見出しました。


    しかしながら、日本の美学の中心に「侘び寂び」を定着させた最大の要因は政治によるものでした。政治と茶道。茶道文化は9世紀頃の奈良時代に中国から日本に伝来し、茶道への関心が高まるにつれ、お茶そのもの自体から、次第にお茶の道具に焦点が移り始めました。そして、茶道として美学が洗練され始め、15世紀には禅を中心とした仏教と融合し茶道を基軸とした精神修養が教えとして昇華しました。16世紀後半、千利休は織田信長と豊臣秀吉の御用茶人となりました。利休は「侘び寂び」の象徴的な存在となりました。今日でも知られている素朴な茶室や茶碗は、その時に提唱され、茶道を通じて秀吉は全国で力を固め、茶道と政治の関係性は不可分となりました。しかしながら、次第に華やかさを求める秀吉と、素朴さを求める茶道の対立は広がる一方でした。秀吉の権力基盤として茶道は非常に重要だったので、彼は政権が弱体化することを恐れ、千利休に切腹を命じました。そして茶道と政治の道は永遠に切り離され、逆に究極の「侘び寂び」の姿が浮き彫りとなりました。


    しかしその後、「侘び寂び」は反権威の象徴となりました。秀吉の権力が衰え、徳川家康が国を統治するようになり、茶道と「侘び寂び」が一気に社会に広まり始めました。家康は武士、農民、職人、商人の堅固な階級制度を確立し、最初に会った小堀政一が武士の茶道を紹介し始め、それとともに「侘び寂び」と「綺麗さび」は日本の生活の中心となりました。


    1600年代に完成したこの「侘び寂び」は、現在でも日本全国の自動販売機とコンビニエンスストアに感じることができるかもしれません。京都の龍安寺の静かな午後、500年以上前に建てられた枯山水庭園の前に座ることができ、お庭を見つめていると素朴な岩や砂利に想像力が溢れます。「侘び寂び」は石庭と同じように、半分準備された帆布であり、私たち一人一人が自分の考えや経験でそれを完成させ、私たちの内面を見つめ直すような価値体系です。言葉で表現するのは難しいかもしれませんが、経験することによって「空(くう)」の状態に入ります。まさに「侘び寂びこそ禅」です。

    日本の美学をひとことで表現するとしたら、おそらく「侘び寂び」という言葉でしょう。覚えやすく、発音もし易いこの言葉は、日本や日本の美術に興味のある人なら誰でもすぐに知っています。海外の方々はきっと石庭、苔、ざらざらした茶碗のイメージを想起すると思います。文字通り、表現は「詫び」と「寂び」の二つの単語で構成されています。「詫び」は元々孤独を意味します。そして「寂び」は簡素で落ち着いた美しさ、年を重ねるごとに増す経年の美や、緑青を意味します。しかし、日本人に「侘び寂び」が実際に何を意味するのかを尋ねると、ほとんどの場合、肩をすくめます。それは、誰も意味を知らないからではなく、言葉で表現するのが難しいからだと、京都の宇治にある朝日焼16代目の松林保斎が最近の取材で答えています。一種の「原始の美意識」としての「侘び寂び」は、英語の単語「primitive」に近い意味であると彼は言います。朝日焼は、江戸時代初頭の茶道の活況を支えるために、1600年頃に芸術家で貴族の小堀政一(小堀遠州)によって設立されました。 「詫び」や「寂び」の概念はすでに古来より存在していましたが、円州は語彙としての「侘び寂び」という表現を確立したと言われ、朝日焼にはその象徴的な美意識の装飾として「綺麗さび」と呼ばれる施しがされました。まさに松林保斎は陶器を通じて現代に継承される「侘び寂び」の意味を英語で伝えたのです。


    「侘び寂び」は言語で説明することが難しく、むしろそのこと自体が「侘び寂び」の本質を言い表しているのかもしれません。そしてそれは日本文化の他の分野でも同様かもしれません。数年前、私は徳島の山で山伏の知人と日本の友人たちと一緒に韓国風焼肉を楽しみました。私たち全員が牛焼肉の夕食を食べていたという事実は、それ自体が日本で物事がいかに一貫性がなく流動的であるかを示す良い例です。山伏は伝統的に肉を食べませんが、その場では韓国風焼肉とビールを一緒に楽しみました。食事をしている際に山伏の友達に修験道の教えや目指すべき道について質問をしたところ、彼は大きな笑みを浮かべて私に向き直り、「考えすぎてもそこには到達できないかもしれませんね」と言いました。そしてテーブルに座っていた私たちは全員で大笑いしました。この事は日本における物事に対する考え方について示唆しています。西洋では、私たちは幼い頃から論理的に物事を区分して理解しようと教えられてきました。しかし日本の場合は論理的な思考を制限的であると感じ、より自然体で人間的な思考を好みます。


    「侘び寂び」の美学がどのようにして生まれたのかを説明するために多くの専門家たちは紀元前14000年から300年までの長い縄文時代に遡ります。当時、日本は狩猟採集社会であり、農業はまだまだ普及していませんでした。しかし狩猟採集社会では珍しく、縄文人は洗練された精巧な縄文式土器を作りました。通常、陶器が重くて生産に時間がかか凛ちゃん、1か所に定住をして農業を基盤とする社会に関連しています。しかし、狩猟採集社会が中心的であった縄文時代の生活様式の中で定住が出来た理由は、日本がそもそも食料資源に恵まれており、縄文人は豊かな自然から食料を得て生活をし定住を築くことができたと考えられています。自ら育てて食料を得るという考え方において、この豊かな自然環境は、世界中の多くの社会でそうであったように、日本の精神性と宗教性を育む原点となりました。そして時を超えて現代の日本人にとっての思想や精神哲学の原点としてこの事は存在し続けています。例えば日本の神道は、時には政治的および社会的目的のためにさまざまな場所で引き合いに出されては来ましたが、元来は主として自然観に基づいた精神体系であり、古代ケルト文化やネイティブアメリカンの精神性との似たアニミズムの派生のようなものであり、自然への畏敬の念や霊的なものを「神」と呼び、ヒンドゥー教によく似た多神教として定着しました。そして自然への崇拝により、季節の変化に対して敏感となり旬の文化が生まれ、そして人々や生命の無常感にもつながりました。こうした日本人の自然を基軸とした世界観はアーティストや作家の共通のテーマとして昇華し、数多くの作品を通じてその想いが表現されています。


    552年に朝鮮半島から仏教が日本に伝来し、それとともに日本では仏教芸術と仏教文化が繁栄し始めました。日本の仏教の歴史は複雑ですが、日本の美学に大きな影響を与え続けた最も重要な概念の1つは「空(くう)」とスートラの概念でした。「般若心経」は、全てのものが「空」であり、絶えず変化していると唱えます。これは、日本人が自然に対する見方として既に持っていた価値観を強化しました。仏教が広まり、日本社会がより洗練されるにつれて、外の世界との接触が増えました。 752年に東大寺に大仏殿が建立され1998年まで世界最大の木造建築物として存在してきました。そしてそれは同じく世界最大の銅像でもありました。大仏開眼式ではシルクロードを伝って世界中から識者が招待され日本に訪れました。境内では世界最大級の国際的な音楽と祈りの祭典が開かれました。既に日本はこの時点で世界と広く交流をしていましたが、この式典により世界はより深く日本文化とその思想を知ることになりました。西洋文化では自然を完璧に捉えることが人間の文化能力を示す価値でしたが、日本では木材や紙など時間の経過とともに変化する自然素材を好みました。奈良の大仏や鎌倉の大仏はそうした観点からは少し特殊ですが、元々日本には青銅や石の芸術作品はほとんどありません。確かに日本人は技術的にそれらを生産することができましたが、そうしない文化を選択しました。建築も同様です。日本の家は地震が発生しやすいので紙と木でできているとよく言われますが、朝鮮半島や中国も同様ですので、この理論はあまり立ちません。日本人は石の建築をよく知っていて、扱う石材が豊富に存在しましたが木を扱うことを選びました。


    芸術文化においても経年変化する文化が好まれました。 1008年に書かれた源氏物語は、秋と「あはれ」、つまり哀愁や悲しみを表現した和歌が豊富に紹介されています。同様に、同じ時期に重要な国宝となった唯一の陶器は、秋の草を表すシンプルな線で飾られた美濃陶器の大きな鍋です。日本人は確かに精巧な装飾や壮大さを好みますが、「黄金の水仙邸宅」よりも、秋の命の終焉に木に生える一枚の紅葉の葉の方に究極の美を見出しました。



    しかしながら重要なのが、日本の美学の中心に「侘び寂び」が位置付けられるには政治的な力が必要でした。政治と茶道。茶道は9世紀の奈良時代に中国から日本に紹介され、その人気が高まるにつれ、お茶自体から茶器などの道具に焦点が移り始めました。茶道と日本文化の美学が蓄積され始め、1500年代頃には禅や仏教と融合し茶道を通じた精神修練の教えが形式化され始めました。そして1600年代後半、千利休は織田信長や豊臣秀吉の御用茶人となりました。千利休は、「侘び寂び」の象徴的な表現ともいわれる素朴な茶室と質素な茶碗を提唱しました。しかしながら秀吉は茶道を使用して全国で力を固め、茶道を政治の道具として使い、華やかさを目指す秀吉と、素朴と質素を実とする茶道界の対立は広がる一方でした。そして秀吉は権力基盤にとって茶道が非常に重要であったために、政権の弱体化を恐れて、千利休に切腹を命じました。そしてそれを境に茶道の発展は永遠に失われ、またむしろそれによって究極の「侘び寂び」の表現が確立したのでした。

    しかし、代わりにわびさびは反権威の象徴となり、秀吉の権力が衰え、徳川家康が国を統治するようになり、お茶とわびさびが社会に広まり始めました。家康は武士、農民、職人、商人の堅固な階級制度を確立し、最初に会った小堀政一が武士の茶道を紹介し始め、それとともに「侘び寂び」と「綺麗さび」が次第に日本の価値観として定着していきました。


    1600年代に完成したこの「侘び寂び」は、現在でも日本全国の自動販売機やコンビニエンスストアの様に日本中で感じることができます。例えば京都の龍安寺の静かな午後、500年以上前に建てられた枯山水庭園の前に座り、静寂の中、石庭を見つめながら瞑想の世界に入ることができます。「侘び寂び」の概念は石庭と同じように半分準備された帆布であり、それを眺める私たち一人一人の想像力を掻き立てることによって完成します。言葉ではなく、体験を通じてその価値を体現できます。まさに「空(くう)」の状態を作り出すのです。まさに「禅とは侘び寂びを通じて体現できる」のです。


    執筆者 トム・ヴィンセント

    Date:

    Written by

    TOP