ポーランド孤児とユダヤ難民が降り立った日本唯一の港

ポーランド孤児とユダヤ難民が降り立った日本唯一の港

2021.3.18

The KANSAI Guide

「人道の港 敦賀」にまつわる2つの命の物語

日本海に面する若狭湾地域は、奈良京都の都からみて北の海の玄関口に当たる。そのため海路を通じて国内外の様々な人と文化が行き交った。中でも敦賀は、波おだやかな天然の良港であり、古くから発展していた。17世紀中頃には、大名の庇護を受けた初期豪商が活躍し、「北国の都」と称されるほどの賑わいを見せた。

 明治になると三つの鉄道敷設が計画された。その一つは、1882(明治15)年に開通している敦賀と琵琶湖を結ぶ鉄道だ。そして、1912(明治45)年、ヨーロッパまでひと綴りの切符で渡航できる直通列車、欧亜国際連絡列車の運行が開始された。それまでおよそ1カ月を要していた日本からヨーロッパの旅程は14~17日程度に短縮され、敦賀はアジアとヨーロッパの各都市を結ぶ拠点となり、「東洋の波止場」とも呼ばれた。当時の敦賀港の繁栄の様子は敦賀市立博物館で見ることができる。

 世界で紛争が頻発する20世紀前半。国際港として栄えた敦賀は、多くの外国の人々が救出された出来事とも関わりが深く、敦賀港は「人道の港」とも呼ばれる。その出来事の一つが「ポーランド孤児救済」の物語だ。ロシア革命後、内戦状態に陥ったシベリアで家族を失い、生死をさまようポーランドの子どもたちがいた。彼らを救うため、ウラジオストクのポーランド人から救援要請を受けた日本政府は日本赤十字社に救助活動を指示した。
 孤児たちはウラジオストクから敦賀に渡り、日本に上陸した。上陸した子どもたちは粗末な服を着て、やせ細り、青白い顔をしていた。日本赤十字社が1人1人に肌着や上着、靴、靴下などを新調した。敦賀の人たちは菓子、玩具、絵葉書などを差し入れ、宿泊、休憩所も提供した。子どもたちは、敦賀から東京や大阪の施設を経由して、その後無事に祖国ポーランドへ送られた。1920年から1922年にかけて救出された孤児は763人に及んだ。1983年、その孤児の1人がお礼を言うために、60年ぶりに、日本赤十字大阪支部を訪れている。

 そしてもう一つの出来事。第二次世界大戦の最中、ナチスドイツ等の迫害からリトアニアに逃げ込んでいたユダヤ難民に対し、当時の杉原千畝リトアニア・カウナス領事代理が、人道上の見地から日本通過ビザ所謂「命のビザ」発給を行った。
 リトアニアからの脱出ルートは当時ドイツと敵対していたソ連をシベリア鉄道で東に向かい、ウラジオストクから日本海を渡って敦賀へ上陸するルートしかなかった。敦賀への入港後、所持金不足で上陸出来ないユダヤ人のため、アメリカのユダヤ人協会が経済的な支援を行った。その資金を届け、避難の旅の手助けをしたのが、外国客誘致支援業務に当たっていたジャパンツーリストビューローだった。敦賀からウラジオストク間の航路に添乗員を派遣し、ユダヤ人輸送の斡旋に当たり、ユダヤ人協会から渡された名簿をもとに顔と名前の照合や、協会からの支給金の給付等の業務に奔走した。
 こうした人々の必死の人道的な善意のリレーによって、多くのユダヤ人たちが救われたのだ。これにより数千人の命が救われたといわれる。

 2006年、これまであまり語られることのなかった敦賀上陸時のユダヤ難民の足跡を調査し、敦賀の果たしてきた役割を後世に伝承しようという動きが地元の歴史研究グループの中で起こった。当時の敦賀市民たちの足跡をたどると、少年が上陸したユダヤ難民にリンゴなどを置いて行ったこと、銭湯の主人が無料で浴場を開放したこと、駅前の時計店の店主が、お腹を空かした難民を気の毒に思い、時計を買い取ったり、食べ物を提供したことなどが明らかになっていった。
 こうして収集した市民証言等をもとに2008年3月、資料館、人道の港 敦賀ムゼウムがオープン。2020年11月には、近代敦賀港にあった洋風建築四棟を再現した建物を復元し、さらに資料の充実を図り、リニュアルオープンした。

 ポーランド孤児とユダヤ難民が上陸した歴史、彼らに手を差し伸べた人々のことや敦賀のまちの人達が迎え入れた様子などが紹介されている。敦賀の港と鉄道は、人や文化、経済だけでなく、海を越えた命と平和の架け橋になったのだ。

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