コラム

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    高野山における「多様性」と「包摂」


    「二キロメートルほどゆっくりと大木の下の、ところどころ木漏れ日が射す土の道を歩いた。サルトルは、<自然と死が合体した、世界で最も美しい墓地だ>とつぶやくように言った」

     (朝吹登水子『サルトル、ボーヴォワールとの28日間-日本』)


    高野山奥之院。そこは樹齢800年の大杉の間に、20万を越える墓石が立ち並ぶ聖域。作家の朝吹登水子氏は、1968年ボーヴォワールとともに来日したフランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルの視察旅行に、通訳として付き従った際に、高野山を訪れた。当時、現代思想の騎手であったサルトルは、名うての無神論者と知られており、神仏に手を合わせたりはしない。しかし、そのサルトルをして「自然と死が合体した、世界で最も美しい墓地」と言わしめた奥之院は、高野山の持つ特質をよく示す象徴的な空間である。


    高野山は、吉野、熊野などとともに2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されたが、山や森などの自然を神仏の宿る所とする信仰が形づくった文化的景観の代表例として、高く評価されている。高野山では、開祖である空海弘法大師が、奥の院において永遠の瞑想に入っているという「入定信仰」が今なお息づいており、御廟には日に2回、精進供(しょうじんく)と呼ばれる食事が供せられている。大自然と1つになった弘法大師に食事をお供えするということは、自然からの恵みを自然にお返しする、という人間と自然との交歓の儀礼を意味してはないだろうか。それは私たちという存在が自然に抱擁され、また自然の中に生きて、そして死ぬという世界観を端的に表してもいるだろう。サルトルの言葉は、その意味で、正鵠を射たものであったと言えるかもしれない。


    奥之院には、歴史に名を残すような戦国大名と名もなき一般庶民の墓が渾然一体となっており、また親鸞や日蓮といった他宗派の祖師の墓も丁重に祀られている。中でも、島津義弘・忠恒の父子によって慶長四年(1599年)に建立された「高麗陣敵味方戦死者供養塔」は、豊臣秀吉による朝鮮の役の戦死者を弔うためのものだが、味方だけでなく敵兵の戦死者も供養しているのが、特筆すべき点だろう。生前対立した者同士も、この宇宙全体を包摂する曼荼羅世界においては、調和して存在し得る、というのが高野山の大切な思想なのだ。


    高野山を訪れる外国人観光客と話をしていると、我が家に帰ったみたいだとか、とてもピースフルだと言う感想をよく聞く。おそらく異質なものをその個性を保持したまま包容し、受け入れてきた高野山の長い歴史のあり方と無関係ではないように思う。今日流に言うと「多様性」”diversity”と「包摂」”inclusion”が、高野山の特徴だと言うことになろうか。



    ただ考えてみれば弘法大師は、そもそもは丹生都比売大神 (にうつひめのおおかみ)という神様の土地である、ここ高野(たかの)に密教修禅の道場を開いたのであった。そのため、神と仏という本来なら異質なもの同士を共存させることを当初から構想されていたのである。密教の教義を立体で表現した壇上伽藍の奥にある御社(みやしろ)には、丹生都比売大神を初めとする四所明神が勧請され、この高野山全体の地主神として祀られており、そのため高野山の僧侶は仏様と同等に、この神様を「明神さん」と呼んで大切に拝むのである。こうした神と仏の共存のあり方こそが高野山の原点であり、先に述べたように世界遺産認定の理由の1つに挙げられている。


    弘法大師は、高野山に修禅の道場を開くにあたり、その地の下賜を願い出る手紙を嵯峨天皇宛にこう認めている。「四面高嶺にして人蹤蹊(にんしょうみち)絶えたり」ー高野山は四方を高い峰に囲まれ、人々が訪れることが稀である、と。今や高野山は年間150万人が訪れ、うちインバウンドは10万人にも達する一大観光地である。だがコロナ禍によって、山上から人影が消えてしまい、図らずも「人蹤蹊絶えたり」という開創当時の状況を追体験することになった。経済的なダメージは少なくない。だが本来の高野山がどういう場であったのか、立ち止まって内省する貴重な機会にしたいと考えている。


    執筆者 高野山高祖院住職 飛鷹全法

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