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多くの旅行者が京都を訪れますが、そのすぐ向こう側に、 日本最大の湖・琵琶湖、古代の巡礼路、水に育まれた寺町を抱く滋賀県が広がっていることはあまり知られていません。
この4日間の旅では、京都北部から滋賀へと静かな道をたどり、森の寺院、湧き水の神域、湖に浮かぶ神社、仏教体験、かつて旅人をつないだ中山道の宿場町をめぐります。
旅の始まりは、日本最古級の神社のひとつであり、世界遺産にも登録されている下鴨神社から。賀茂川と高野川が合流する地に建ち、創建は1500年以上前ともいわれています。
古来より京都に災厄が北から入り込むのを防ぐ“守護”の役割を担ってきた、水と森に抱かれた特別な場所です。
ここでの見どころのひとつが「水みくじ」です。
おみくじはその場で読むのではなく、いったん“何も書かれていない紙”を清らかな流れにそっと浮かべます。
水に触れた瞬間、文字がゆっくりと浮かび上がり、あなたの運勢がうつしだされます。
大原へ北上すると、空気ががらりと変わります。
ここに佇む三千院は、京都北部でも屈指の静寂に包まれた寺院。特に苔庭が有名で、光の加減とともに緑の濃淡が揺らめき、まるで“緑の海”のようです。
苔の合間からは小さなお地蔵さまが顔をのぞかせ、庭を静かに見守っています。
この光景こそ、多くの旅行者が三千院を訪れる理由のひとつです。
しかし、魔法のような空間はここで終わりません。さらに奥へと歩いていくと宝泉院が姿を現します。
お抹茶をいただきながら、縁の窓枠の空間をフレームに見立てて庭を眺めることができます。まるで生きた日本画のように、季節ごとの景色が額縁の中に収まります。
大原の寺院を巡ったあとは、季節の料理を出すカフェ「わっぱ堂」で昼食をとりました。
ここでは、畑で採れる素材をそのまま生かす、本来の意味でのファーム・トゥ・テーブルの料理が楽しめます。
ここで使われる野菜は、すぐそばの畑で収穫されたもの。
そのため、メニューは ”その畑の恵みに応じて” 常に変わっていきます。
窓の外には、料理に使われる野菜が育つ畑が広がっています。その景色を眺めながら食べると、味がこれほど自然で新鮮に感じられる理由がよくわかります。
午後は、日本の仏教の源流ともいえる比叡山へ向かいました。ここは、のちに禅宗・浄土宗・日蓮宗などの礎となる教えが育まれた、非常に重要な聖地です。
788年に最澄によって開かれた延暦寺は、天台宗の中心として発展し、のちに禅宗・浄土宗・日蓮宗へとつながる日本仏教の源流を形づくった場所です。
広大な境内は山内を三つのエリアに分けて構成され、森の参道でつながっています。古いお堂、苔むした石段、そびえ立つ杉木立の間を歩けば、何時間歩いても同じ景色に出会うことはありません。
秋になると、延暦寺は関西でも屈指の美しさを誇る場所に変わります。
燃えるような紅葉、澄んだ山の空気、足音まで際立つほどの静寂—そのすべてが特別な時間をつくり出します。
多くの旅人が選ぶのが、本堂のすぐそばにある宿坊「延暦寺会館」での滞在です。
ここでは、朝は読経で目覚め、食事は精進料理—仏教の教えに基づいた伝統的な菜食料理が供されます。
夜になると、琵琶湖を見下ろす景色は忘れがたいものになります。
水面に映る灯りがゆらめき、まるで夢の中にいるような光景です。
2日目は日の出前から始まりました。
普段は僧侶のみが参加する、朝の読経に加わる貴重な機会です。
延暦寺会館では、お勤めに参加する宿泊者に、数珠とお経本からなる小さな“お勤めセット”が渡されます。皆が静かに唱和に従いますが、すべての言葉を理解する必要はありません。
声そのものが心に響く体験です。
比叡山を後にして向かったのは、関西の命の水ともいわれる日本最大の湖・琵琶湖。
何世紀にもわたって、琵琶湖の水は京都へと流れ込み、農業、日々の暮らし、さらにはお茶の栽培まで支えてきました。
もし琵琶湖の水がなければ、京都は都としてこれほど栄えなかったともいわれています。
現在でも、京都の水の大部分は琵琶湖が源となっています。
琵琶湖の西岸に立つ白鬚神社は、水の中にそびえる鳥居で知られ、“滋賀の浮かぶ厳島神社”と呼ばれるほどの絶景で、地域を象徴する景色のひとつです。
午後に訪れたのは、琵琶湖西岸に位置する高島市の大溝でした。
高島は 清らかな湧き水、受け継がれる食文化、そして琵琶湖との深い結びつき の3つで知られています。
比良山系からゆっくりと流れてくる地下水のおかげで、日本でもトップクラスの水質を誇る地域です。
地元の方たちは「水がすべての味を決める」と言います。日本酒、豆腐、お米、野菜に至るまで、この水が味を左右するのだと。その言葉が本当なのか確かめるため、私たちは同じ高島の霜降・針江の「カバタ」地区に150年以上続く、老舗蔵元の 川島酒造 を訪れることにしました。
1865年創業の川島酒造は、長い年月にわたり比良山系の地下水を仕込み水として使い、雑味がなく、澄んだ味わいの日本酒をつくり続けてきました。
看板銘柄の「松の花」は、なめらかな口当たりとほのかな香りで日本酒好きに知られています。 その味わいは添加物によるものでは決してなく、水そのもののミネラルのバランスが形づくるものです。
近年、川島酒造では日本酒づくりで代々使ってきたこの湧き水を活かし、ジャパニーズウイスキーの製造にも挑戦し始めています。
少量生産ながら、ウイスキー愛好家の間でじわじわと注目を集めています。この土地では、伝統が止まることなく進化し続けていることの証でもあります。
また、地酒に合わせて、近くで穫れた川魚や新鮮な豆腐を楽しめる気軽なテイスティングも体験することができます。
この夜の宿は、琵琶湖のほとりに建つ快適なリゾートホテル、北ビワコホテルグラツィエでした。
ホテルからは、琵琶湖畔の遊歩道へそのまま歩いて行けます。
特に日の出の時間は格別で、風がやむと、琵琶湖が静かな鏡のようになり、水面には淡い色の光がふんわりと広がります。
湖畔のホテルから桟橋まではわずか数分。ここから琵琶湖を渡る旅が始まります。
高速船に乗り込むと、その時間そのものが象徴的に感じられます。
岸を離れるにつれて滋賀の山々はゆっくりと遠ざかり、湖面は穏やかな鏡のように広がっていきます。水を渡る行為そのものが、巡礼の一部になっていくのです。
竹生島は1300年以上にわたり信仰の対象とされてきた島で、その精神文化の中心に“水”があります。
島には航海安全や長寿の神を祀る竹生島神社、そして水・音楽・芸術・智慧を司る弁才天がご本尊の宝厳寺が建っています。
竹生島では、「願いダルマ」といって、小さくて赤い可愛いダルマの中に、お願い事を書いた紙を収め、本堂に奉納するという願掛けがあります。ダルマの顔は弁財天の顔になっています。
なかでも興味深いのが、 舟廊下(ふなろうか) と呼ばれる回廊です。これは、豊臣秀吉の愛用した船「日本丸(にほんまる)」の材木を再利用して建てられたと伝えられています。
この廊下は重要文化財に指定されており、観音堂から竹生島神社につづいています。
再び岸へ戻り、今度は中山道の宿場町として栄えた醒井宿へ向かいました。かつて京都と江戸を行き来する旅人たちが歩いた道筋が、今も美しく保存されています。
伊吹山の麓に位置する醒井宿は、山から湧き出る清らかな水によって、何百年ものあいだ守られてきました。湧き水は家々や旅籠の脇を流れる石の水路へと直接注ぎ込み、町の暮らしを支えてきました。
今でもその水は驚くほど澄んでおり、初夏にはホタル、マス、そして水温が一定で澄み切った綺麗な水でしか育たない 梅花藻 が生き生きと育ちます。
これは、地元の人々が環境を大切に守り続けてきた証ともいえる、貴重な光景です。
町を散策する途中、私たちは日本料理 本陣 樋口山に立ち寄り、昼食をいただきました。
醒井の自然や雰囲気をしっかりと映し出す、昔ながらの料理店です。
店では、醒井の水が育んだ地元食材が使われています。清流で大きく育った虹鱒は、塩焼きや白味噌を使った田楽焼きで提供され、その味わいに、清流の恵みを感じます。
醒井宿からほど近い場所に佇む青岸寺は、室町時代(1336–1573)に創建された静かな禅寺です。戦国時代に一度焼失しましたが、御本尊である聖観音だけは難を逃れ、小堂に祀られながら長く守られてきました。その後、寺は再建され現在の姿へと受け継がれています。
青岸寺の庭は「借景」の技法でつくられており、伊吹山や周囲の丘陵の姿を景色に溶け込ませています。しかし、最も興味深いのは 大雨のあとにだけ現れる池です。
雨が降った日には水が満ちて美しい姿を見せますが、乾いた日には跡形もなく消え、石と苔だけが静かに残ります。
畳の部屋では、この移ろいゆく景色を眺めながら抹茶をいただけます。雨のあとに訪れれば、庭はもっとも貴重な姿を見せてくれます—まるで大地が“水だけに教える秘密”をそっと明かすように。
京都へ戻ったあとは、市内では数少ない“天然温泉”を楽しめるホテルハトヤ瑞鳳閣 に宿泊しました。ここでは、地下から汲み上げた温泉の湯に浸かることができ、お食事には、京都北部や琵琶湖周辺の農家から届く季節の食材を使った京都らしい料理が供されます。
京都駅から数分の場所とは思えない静けさで、田園の穏やかさと京都の都会のリズム、そのちょうど間に立つような心地よい“ひと休み”の時間を過ごせました。
最終日は、日本の抹茶文化の発祥地・京都の宇治から始まりました。宇治のまちは清流・宇治川のほとりに広がり、その澄んだ水がこの地の茶文化を育んできました。
到着してまず感じるのは、街中にふわりと漂う焙じたお茶のほんのり甘い香り。
それだけで、このまちがどれだけ茶とともに生きてきたかが伝わってきます。
宇治のまちには、昔ながらの茶屋が立ち並んでいます。また抹茶の体験ができ、茶葉を挽くところから、点て方、飲み方まで学ぶことができるお店や施設があります。
木々のあいだには寺院の屋根がひっそりと顔をのぞかせ、宇治が古くから“心を整え、感覚を澄ませるための場所”として人々に選ばれてきたことを思い出させてくれます。決して観光だけのまちではありません。
旅の締めくくりに向かったのは、京都の伏見。酒蔵と清らかな湧き水で知られる地域です。
その魅力をもっとも雰囲気たっぷりに味わえるのが、歴史ある伏見港からゆったりと進む 十石舟の船旅。小さな木造船が伏見の運河を滑るように進み水の都としての伏見の本来の姿が静かに立ち上がってきます。
「十石舟」という名前は、江戸時代に伏見と大阪の間で米や酒樽を運んでいた舟に由来しています。現在の航路はとても穏やかで、頭上では柳が風に揺れ、舟の横ではカモがゆったりと泳ぎ、川の流れは何百年も前と変わらない静かな速さで進んでいきます。
川沿いには今も酒蔵の風景を見ることができます。
月桂冠や黄桜など、伏見を代表する多くの酒蔵がここに創業したのは、地下水がやわらかく、澄んでいて、酒づくりに理想的だったからです。桟橋のすぐそばには、試飲や見学ができる日本酒の資料館「月桂冠大蔵記念館」もあります。
この4日間の旅が教えてくれるのは、京都と滋賀が“隣同士だから”つながっているのではなく、そのあいだを流れる水が、両者を結びつけてきたということ。
山から流れる清らかな水に育まれた寺院、湧き水が生んだ酒、そして湖が形づくった食文化や精神性—。
訪れる場所ひとつひとつが、水が何世紀にもわたり文化と暮らしを導いてきたことを静かに物語っています。