神も仏も信仰する日本人の不思議 ~神仏習合~

神も仏も信仰する日本人の不思議 ~神仏習合~

2021年02月09日

The KANSAI Guide

日本人の多くは雑多な信仰を持つ。子どもが生まれたときには神社(神道)にお参りするのに、お葬式はお寺(仏教)で行うという人が多数派だ。クリスマス(キリスト教)を祝ったかと思うと年末はお寺に除夜の鐘を衝きにいき、翌日の新年は神社に初もうでをする。そのくせ、自分のことを無宗教と思っている人が多い。逆に無宗教だからこそ、複数の神や仏を拝むことに違和感を覚えないのかもしれない。
 こうした日本人の信仰に対する特性を育んだ背景には、日本固有の神の信仰と外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた「神仏習合」の歴史があったからではないかと考えられる。

大和国から転々として伊勢神宮にたどり着いた天照大御神

 古来日本人は、山や海、森や木、岩などの自然物に多くの神々が宿ると信じ、アニミズム(自然・精霊信仰)や先祖の霊魂を大切にし、平安を祈ってきた。山そのものを神とあがめる霊山、岩そのものが信仰対象となった磐座(いわくら)がそれらを物語る。神が宿るとされる奈良県桜井市の三輪山(みわやま)も代表的な霊山の一つ。大神(おおみわ)神社には現在も拝殿はなく、この三輪山を神として祀る古い形態の神社だ。

 山添村には不思議な磐座が多数存在する。これらの巨石をGPSで計測すると、こと座のベガ、わし座のアルタイル、さそり座のアンタレスの位置と重なり、岩を星に重ねて信仰していたとの説もある。やがて部族の長老などを霊山の麓に埋葬し、そこに石の標を置いて祠を作る。これが神社の原型となった。
 皇室の祖先神とされ、日本の総氏神である天照大御神は、現在は三重県伊勢神宮に祀られているが、第10代の崇神天皇の時代までは天皇と共に皇居で祀られていた。第11代の垂仁天皇の皇女・倭姫命が90年にわたり大神神社から伊賀、近江、美濃、尾張など理想的な鎮座地を求めて転々とし、最終的に伊勢にたどり着いて伊勢神宮の礎を作った。これが日本における神道のルーツである。

飛鳥・桜井の地で出合った神道と仏教 

 日本に仏教が伝来したのは6世紀のこと。百済の聖明王から欽明天皇に金銅製の仏像と経典が贈られたことに端を発する。当時は飛鳥の甘樫丘あたりが国の中心であったため、仏教もまずはその一帯である飛鳥・桜井あたりから広がっていった。後に仏教を尊重する蘇我氏とこれに反対する物部氏との間に仏教抗争が勃発する。蘇我氏が勝利したことで仏教が国家鎮護の“国教”に定められる。そして日本第一号の寺、法興寺(のちの飛鳥寺)が建立される。もともとは神道を信仰していた天皇や貴族も、仏教を中心に学び始めていくことになる。
 また、仏が人々を救うために神という仮の姿で現れると説明する考えが広まったことで神仏習合は、明治政府が神道を“国教”とすべく「神仏分離令」を1868年に発令するまで続く。
 神仏習合の例は全国に多い。三輪山をご神体とする大神神社の境内にかつてあった大御輪寺(現在の大直禰子神社)もその一つ。本堂の中央には国宝・十一面観音が本尊として安置され、奥には大神神社の祭神である大物主大神の子孫、若宮様が祀られていた。この若宮が入定して十一面観音に変じたとか、この十一面観音が実は若宮の母であるとか、様々な伝承が伝わる。明治の神仏分離令の際、本尊十一面観音は桜井の聖林寺に移された。この国宝の十一面観音像は2021年、初めて奈良を出て東京国立美術館で展示される。

伊勢神宮から、女性信仰息づく海女の地・志摩へ

 神道の話に戻ろう。三重県・明和町に斎宮跡がある。斎宮とは天皇に代わって伊勢神宮の天照大御神に仕えた未婚の皇族女性・斎王が過ごした場所。斎王制度は飛鳥時代から南北朝までの約660年間続いた。そもそもなぜ、最終的に伊勢神宮が天照大御神をお祀りする場所になったのか。都が置かれた大和奈良から見て、日が昇る真東にあたり、理想郷と思われていたこと、山海の幸に恵まれていたこと、さらに命豊かな深い森があったことが理由だと考えられる。

 伊勢神宮とは「内宮」と「外宮」を中心とした125もの神社の総称だ。20年に一度、神様をお祀りしている社殿とまったく同じ形の新社殿を建て、御神体をお遷しする式年遷宮が1300年間、途切れることなく続いている。神様を常に若く瑞々しい社殿にお祀りすることで、大いなる力で我々をお守りいただくためだ。日本人なら一度はお伊勢参りをしたいと思わせるゆえんだ。
 伊勢神宮では大小合わせると1年に千回を超えるお祭りが行われている。神宮徴古館には祭りの際に使用される祭器具や式年遷宮で新調される御装束神宝が展示されている。神宮美術館には、式年遷宮を奉賛して奉納された美術品が収蔵されている。日本の美術史を展望できる美の殿堂だ。

 鳥羽市の志摩半島には現在も全国最多の約660人もの海女がアワビ漁に携わる。アワビを細く切って干した熨斗アワビは神にお供えする神饌の中で、最も古くから食卓に上っていた。これは倭姫命が伊勢湾を訪れた際に、志摩・国崎の海女がアワビを奉納した事に起源し、以来国崎のアワビだけが伊勢神宮に奉納されている。この伝説の海女の名は「お弁」。彼女を祀った「海士潜女(あまかずきめ)神社」がある。
 神明神社内にある慈母石神は女性のためのパワースポットだ。海女が豊漁と安全を願って祈願し続けたことから、女性の願いを一度はかなえてくれるとの言い伝えがある。星と格子が刺繍で綴られた魔除けのお守りは、全て海女さんの手作り。一筆書きの☆は「海女が海に潜っても元の場所に戻れる」。格子は「魔物の入る隙がない」という意味だ。

 鳥羽市立海の博物館は、海女や漁など志摩や鳥羽の海に関する民俗資料を展示。貝殻や海藻を使った手作り体験も楽しめる。
 日本人はこのように古来、自然や人に、そして仏様にも神様を重ね、あらゆるものを祈りの対象としてきた。祈りの対象をときどきによって変えられるしなやかさは、無常の世を平安に生き抜こうとする日本人ならではの知恵だったのかもしれない。

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